1.私達の知っているようで知らない軽井沢

皆さんは軽井沢を御存知だと思います。日本を代表する避暑地であり、そして観光地でもあります。これを現在御覧の方の中に、実際に軽井沢へ行ったことがある、と言う人も少なくないでしょう。これほど有名な軽井沢ですが、皆さんは実際に軽井沢についてどれくらい御存知でしょうか。軽井沢と言えば、恐らく日本人で知らない人も殆どいないかと思いますが、意外に知られていない点も少なからず有りそうです。ここではそんな軽井沢について紹介します。
そもそも軽井沢とは、いったい何処にあるのでしょうか。皆さんは軽井沢の場所を御存知でしょうか。軽井沢(かるいざわ)とは、長野県佐久地方にある地域です。もっとも一口に軽井沢と言っても、軽井沢には色々な捉え方が有ります。軽井沢は狭義では長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区、或いは軽井沢町全体を指します。広義の意味での軽井沢では、それらに加えて群馬県にある北軽井沢地区等も含まれます。軽井沢の位置、範囲についてはそういったところです。
ところで皆さんは軽井沢の歴史について御存知でしょうか。ここからは軽井沢の歴史について紹介していきます。軽井沢の歴史は江戸時代に始まる、と言ってもいいでしょう。江戸時代には軽井沢は、五街道の一つとして有名な中山道が通る宿場町でした。そして中山道の難所の一つとしてよく知られる碓氷峠の、その西側の宿場町として栄えていました。皆さんは碓氷峠について聞いたことが有るかと思います。碓氷峠は、軽井沢と、軽井沢から江戸よりの隣の宿場町であった坂本宿との間に位置します。そして軽井沢付近には軽井沢宿(旧軽井沢)の他にも、沓掛宿(中軽井沢)、そして追分宿(信濃追分)の三つの宿場が置かれていました。軽井沢だけでもこの三つが有った訳です。この三宿をまとめて「浅間三宿」とも言いました。この名前からもわかるように軽井沢は、浅間山を望む景勝地としても有名でした。
ちなみにこの辺りの位置関係を明示すると、江戸の方向から見てまず坂本宿が有り、そして碓氷峠、軽井沢宿、沓掛宿、追分宿、小田井宿と続いて、これが京都寄りの方向になります。
江戸時代はこのように軽井沢は中山道の宿場町として栄えていました。ところが江戸時代が終わり明治時代に入ると、軽井沢はいったんは宿場町としての機能を失い、没落することになります。しかし思わぬことから、嘗ての宿場町軽井沢は復興を果たします。そのきっかけは1886年(明治19年)にカナダ人宣教師のアレクサンダー・クロフト・ショー(Alexander Croft Shaw, 1846年 - 1902年)がたまたま軽井沢を訪問したことに有ります。彼は高林薫平の居宅を借り受けて、同年の7月から8月まで軽井沢に滞在しました。そして彼は軽井沢が故郷のカナダ・トロントに似ていると感じました。

1888年(明治21年)、ショーは「つるや」の主人である佐藤忠右衛門の斡旋によって、軽井沢に別荘を設けました。これが避暑地としての軽井沢の歴史を切り開くことになりました。これが後の有名な避暑地、観光地としての軽井沢の第一歩だったのです。こうして完成した軽井沢の別荘第一号は、民家を移転して改造したものでした。この建物はのちに移築されて、現在はショーハウス記念館として、ショー氏記念礼拝堂の裏に現存しています。現在の軽井沢発展の基礎を作った人物を、現在でもこのように軽井沢では顕彰しているのです。