9.軽井沢の現在1

皆さんは軽井沢を御存知だと思います。皆さんも御存知の通り、現在の軽井沢は日本国内でも有数の避暑地として繁栄しています。日本人の殆どが、軽井沢の存在を知っているでしょう。現在の軽井沢は日本は勿論、世界でも相応の知名度を誇っています。
軽井沢は、長野県佐久地方にある地域です。軽井沢は非常に有名なのですが、一口に軽井沢と言っても、軽井沢という地域の範囲には色々な捉え方が有ります。例えば軽井沢は、狭義では長野県北佐久郡軽井沢町旧軽井沢地区、或いは軽井沢町全体を指しています。一方で広義の意味での軽井沢となると、それらの地域に加えて、群馬県にある北軽井沢地区等も含まれています。軽井沢の位置や範囲については、大体そういったところでしょうか。
皆さんも御存知のように、軽井沢は避暑地としてその名を知られるようになって来ました。江戸時代の宿場町から、避暑地として華麗なる変身を遂げた、とも言えます。
明治の初期にカナダの宣教師であるショー師が軽井沢にやってきて、軽井沢に初めての別荘を建てました。軽井沢が避暑地として定着するに、ショー師ら外国人は非常に大きな役割を果たしたと言えます。逆に言えば、彼ら外国人の宣教師達の尽力が無ければ、今日の軽井沢は有りえなかったとも言えます。
こうして避暑地として軽井沢は年々順調な歩みを続けました。そして軽井沢に別荘を建てた外国人や日本人達によって、軽井沢の名声もひろく知られるようになりました。そうなると、軽井沢を訪れる人々の数も増加を重ねました。宿場町としての賑わいを一旦は失っていた軽井沢ですが、避暑地としての軽井沢が認知されるに従って、徐々にその賑わいを取り戻していきました。明治30年頃には、新たに軽井沢に避暑にやってくる人達のその受入れのために、軽井沢では貸別荘やホテルが営業を開始するようになりました。避暑地としての軽井沢は、こうして規模を拡大していきました。
こうした傾向に尚拍車がかかります。明治が終わって大正の初期になると、箱根土地(現在のコクド)や鹿島建設、それに野沢組等の大手資本が軽井沢の観光開発に参入するようになります。こうした大手資本によって軽井沢の土地分譲が始まりました。その結果それまでは旧軽井沢中心であった軽井沢の別荘地が、徐々に南へ、或いは西へと開発されるようになりました。殊に第一次大戦後の好況の影響を受けて、日本人の有産階級の人達が盛んに軽井沢に訪れるようにもなっていました。それからは、日本人避暑客がそれまで軽井沢で多かった外国人観光客を上回るようになりました。
こうした観光客層の変化は、避暑地軽井沢にも大きな影響を与えることになります。例えばそれまで避暑地軽井沢の様相は、先に紹介した軽井沢の外国人先駆者達がつくり上げてきた、質素で高潔な避暑地というイメージでした。そんな軽井沢が、日本人的な華やかな別荘地へと一変します。そして軽井沢にはこれら軽井沢を数多く訪れるようになった日本人避暑客の需要を満たすために、各種の商店が建ち並ぶようになりました。そして軽井沢の中心でもある旧軽井沢商店街は、「軽井沢銀座」と呼ばれるほどの活況を帯びるようになりました。また軽井沢の市街地のこうした変化と合わせて、ゴルフ場やテニスコート、それに乗馬等のスポーツ施設も相次いで新設されました。そして軽井沢の避暑地としての機能も、ほぼ現在の軽井沢の原型として出来上がってきました。
しかし、このような軽井沢の著しい変容の間にも、先に紹介した軽井沢の先人者達の精神を受け継いだ「軽井沢憲章」の精神を守り貫いていこうという動きも強固となっていきました。そして軽井沢を言わばこの世の聖地にしようという目的から、「軽井沢避暑団」が結団設立されて、そしてその目的にそった各種の啓蒙活動が展開されるようになりました。