7.軽井沢の歴史3
江戸時代になると、軽井沢は中山道の一宿として開かれました。皆さんはこの中山道を御存知でしょうか。中山道と軽井沢について詳しく紹介する前に、まずは中山道について、ざっとその概要を皆さんに紹介します。
皆さんも周知のとおり、この中山道は江戸日本橋を起点としています。そして武蔵(現在の東京都、埼玉県)・上野(現在の群馬県)の宿々を経て、碓氷峠を越えて、軽井沢を通ります。そして追分に差し掛かったところで北国街道(善光寺道)と分かれます。そして中山道は更に小田井、岩村田、望月の宿をたどって、和田峠から諏訪に出ます。そして木曽路から江州草津まで合計67の宿場を持っていました。中山道は江戸時代の五街道の一つでした。江戸時代の五街道の他は、皆さんも御存知の東海道に甲州街道、それに日光街道、奥州街道が有りました。
軽井沢の言わば入り口に当たる碓氷峠は、東海道の箱根と並ぶ天下一の難所として世に聞こえていました。軽井沢はそんな言わば天下の関所をひかえ、そして更に中山道から北国街道の分岐点を持っていました。そんな軽井沢高原には、浅間根腰の所謂三宿(軽井沢・沓掛・追分)が形成されていました。当時の街道筋の中における、軽井沢のその繁栄振りは現在まで語り継がれています。私達はこうした宿場町としての軽井沢の歴史から、当時の軽井沢の繁栄振りを窺い知ることができます。
しかしながら、もともと軽井沢は寒冷地帯でもあります。この軽井沢の宿場町を取り囲むように広がる農村地帯は、軽井沢の言わばもう一つの側面でした。軽井沢一帯の農村地帯はそもそもが高冷地であるため、ごくわずかのアワ、及びヒエ等の雑穀物が主産という寒村でした。しかも軽井沢一帯を例年の如く襲う冷害、或いは現在も活火山である浅間山の噴火による災害に見舞われていました。それに加えて軽井沢一帯の農民は宿場への助郷にかり出されていたため、軽井沢一帯で農業に携わる農民の生活は悲惨なものであったと伝えられています。こうした一面も、まぎれもなく軽井沢の持つもう一つの側面だったのです。
こうした状況を言うなれば、この時代の軽井沢は、中山道を通る旅人たちの落とす路銀が、軽井沢の人達の生活、更には軽井沢の経済を支える大きな収入源でもあったわけです。軽井沢の経済は宿場町としての機能に頼っていました。そのため江戸幕府の約300年の歴史が終わり、明治の新時代になると、中山道を往来する旅人も年々少なくなり、そしてかつての隆盛を極めた軽井沢の宿場も寂しくなっていきました。言うまでも無く軽井沢の経済も打撃を受けました。軽井沢の住民達は四散してしまい、軽井沢は高寒冷地の一村として、衰退の一途をたどったのです。
軽井沢の衰退に追い討ちをかけたのが、皮肉にも交通網の発達でした。明治17年(1884年)、往時の難所であった碓氷峠に碓氷新道(現在の国道旧18号線)が開通したことによって、中山道沿いの軽井沢の旧宿場町は決定的な打撃を受けました。ここに長く続いた軽井沢の浅間三宿の歴史は完全に終止符を打つに至りました。繁栄した宿場町としての軽井沢の歴史は、完全に終わりを告げたのです。