8.軽井沢の歴史4

江戸の宿場町としての役割を終えて、衰退期に入った軽井沢ですが、そんな軽井沢も思わぬきっかけによって、再び隆盛のときを迎えるに至ります。現在の私達にとってお馴染みである避暑地としての軽井沢のスタートです。
避暑地としての軽井沢のスタートは1886年(明治19年)に遡ります。この年、カナダ生まれの宣教師アレキサンダー・クロフト・ショー師が軽井沢を訪れました。そしてその美しく清澄な自然と気候とに感嘆しました。ショー師は軽井沢を故郷のトロントに似ていると感じ、その家族や友人達に軽井沢の素晴らしさを推奨しました。そもそも、その年の夏にショー師が軽井沢へ避暑に訪れたのが、避暑地としての軽井沢の最初だと言われています。
すっかり軽井沢が気に入ったショー師は、明治21年に旧軽井沢の大塚山に簡素な別荘を建てました。これが軽井沢における最初の別荘でもあります。そしてショー師は、内外の知名人達に、軽井沢が保健と勉学の適地であるとして紹介しました。そのため、ショー師の友人である宣教師達の別荘が、年を追って軽井沢に次々と建ち始めました。そして軽井沢の「別荘ブーム」は外国人だけではなく日本人にも及び、明治26年には軽井沢で初めての日本人所有の別荘も建てられました。こうして軽井沢は、ショー師とその友人達の手によって避暑地としての新しい生命を与えられることになりました。そんな軽井沢は、同年開通した碓氷新鉄道によって、更にその発展の速度を早めていったのです。
このように避暑地としての軽井沢は、外国人達の存在と彼らによる軽井沢の宣伝が不可欠でした。このように避暑地軽井沢の揺籃期は、外国人宣教師やその家族が大半であり、彼らが軽井沢の中心的存在でした。従って当時の軽井沢は、必然的にキリスト教的風潮の強い町になったようです。そんな背景も手伝って、彼らは軽井沢を永遠に明るく清潔で、そして住みよい町にしようと心掛けました。そうして心構えを自ら率先して行い、軽井沢の住民達にも例えば「時間と約束を守ること、ウソを言わぬこと、生活を簡素にすること・・・」等と呼びかけ、これを共に励行しました。
こうした当時の精神は現在も軽井沢にも受け継がれています。これらの精神の実践によって、「善良な風俗を守り、清潔な環境を築こう」という高潔な精神が、その後も避暑地軽井沢の輝かしき伝統と歴史を貫く「軽井沢憲章」の根底となりました。軽井沢にはその後の幾多の困難が訪れましたが、この「軽井沢憲章」に代表される軽井沢の高邁な精神が、幾多の困難を克服し得た礎である事は、現在言うまでもないでしょう。こうして見ると、先に紹介した、軽井沢に初めてやって来た外国人のパイオニア達は、軽井沢を国際的な避暑地として発展させる基礎を築いたことはその功績として疑い有りませんが、彼らの貢献はそれだけには止まらないことになります。
彼らの軽井沢への貢献は、実に多方面に及びます。例えば軽井沢にやってきた外国人達は、軽井沢の地元の農家の人達に、軽井沢の清澄な土地に合った高原野菜(キャベツ・白菜等)の栽培法を教えました。それによって軽井沢では、それまではヒエ、アワ等の雑穀類生産の零細な農業主体だったのが、今日では軽井沢は高原野菜の一大生産拠点になっています。そうした農業の転換にも、外国人達は大きく貢献したのです。
これらのキャベツ等の高原野菜は、軽井沢では浅間高原の清涼な気候と風土に実に適していました。そのため、その生産出荷高は年を追う毎に増大し、現在では軽井沢の農業を支える支柱となっています。その事は周知の事実でもあります。そしてこれらの軽井沢高原野菜は、現在では時代の要請もあってレタスを主幹としています。そして軽井沢の高原野菜は、独特の風味を持つ品質が大きく評価されています。それに加えて予冷設備の完備等と共に、ますますその評価を高めています。
軽井沢に初めてやってきて、避暑地としての軽井沢の建設に大きく貢献した外国人達の遺産が、現在でもこういった形で私達に受け継がれているのです。軽井沢におけるそうした遺産を、現在の私達が共有できることは、私達にとって実に幸せなことではないでしょうか。